腎臓教室 Vol.58
被災地からの報告
医療法人雅香会 おぎはら泌尿器と目のクリニック 荻原 雅彦 先生今回は、ご自身も東日本大震災の被災者でありながら、まだまだ傷の癒えない透析患者さんをたくさん抱えていらっしゃる荻原雅彦先生に、レポートをお寄せいただきました。
地震発生時の対応
東日本大震災において、我々は自身が被災しつつも、後方支援として避難透析患者さんの収容も積極的に実施してきました。地震は透析治療中に発生したことから、即座に透析中止を決断したうえで、患者さんの避難誘導にあたりました。透析設備の被害は甚大であり、治療に必要なライフライン(電気、水道)も確保不能に至りました。その時点で稼働可能な透析施設は限られており、地域内外の連携をとろうにも、電話、インターネット等の通信手段は不安定な状況で、また福島県においては既存の透析施設間での連絡網も未整備の状況でした。
そこで、自然発生的に県内で次々と新たなネットワークづくりがなされ、また日本透析医会災害情報ネットワークと連動することで、各病院間の連携も円滑になり、ようやく施設への患者さん配分、計画的な透析日程の決定、必要薬剤や器材の供給が行われるようになりました。
ライフラインが復旧するまで
ライフラインについては、行政自体が混乱状態にあるのに加え、透析医療に対する認識不足から必要最小限の提供も得られなかったことから、自前の調達を余儀なくされました。復電までの数日間は院内の非常用電源(軽油使用)を使用しつつ、不足する分については自衛隊から外部電源の提供もいただきました。水不足はもっとも窮迫した問題でした。1人あたり1回の血液透析に必要な水は100リットルにもおよび、院内で備蓄していた貯水タンクの容量にも制限があるため、断水した期間(福島市では1週間)、毎日自ら水道局へ直談判したり、県の災害対策本部に陳情し、自衛隊や消防署からの給水を得ていました。
ダイアライザー、透析回路、生理食塩水、貧血治療薬に関しても、流通路の遮断により製薬会社や医薬卸からの供給が途絶え、当初は病院間で備蓄分を共有しながら当座をしのぎました。また避難透析患者さんの急増により、日々必要物品数の変更を余儀なくされ、数量の確保も毎日の業務となりました。震災後5日目以降は、日本透析医会から各企業への働きかけや各企業の統括責任者からの数量担保も得られ、我々も透析治療に専念することができました。
通信網・流通路の遮断がもたらした障害
なお、通信網や流通路の遮断は我々の予想もしない障害をもたらしました。その1つは透析患者さんの安否確認や連絡事項の通達が困難になった点です。当院では災害前から非常時の病院連絡を指示していましたが、こちらからの連絡が極めて難しい状況が続きました。それに対し24時間体制で連絡対応を行いつつ、非常用回線や災害伝言ダイヤルを利用したり、直接あるいは依頼業者が赴いて確認を行うこともありました。2つめは燃料不足によって透析患者さんの通院、医療従事者の通勤が困難になった点です。限定給油所の利用や病院送迎車を稼働したり、身体の不自由な方については入院も必要となりました。
避難を要する透析患者さんは、地震や津波による直接の避難に加え、原発行政の迷走に伴う相次ぐ避難地域の変更を迫られるなか、避難所における劣悪な生活環境、避難透析施設への通院困難により肉体的、精神的ストレスが測り知れなかったものと推察されます。
腹膜透析(PD)患者さんの状況
腹膜透析(PD)患者さんは持続的治療がなされ、つねに体液や尿毒素の状態が安定しているため、血液透析患者さんほど時間の切迫感はないことを念頭におき、①自宅損壊の有無、②電源確保の有無、③避難の要否、④通院施設の稼働の有無、⑤通院の可否の点に配慮して対応を決定しましたが、早期の時点で日本腹膜透析医学会からPD受け入れ可能施設の公開がなされ、また企業主導による患者安否確認や必要器材(透析液、回路)の確保も速やかでした。PDの実施は自宅や避難場所で行いつつ、必要に応じ自動腹膜透析装置を用いた治療(APD)を手動に切り替えるなどPD処方を個々に変更したり、APDを夜間のみ病院の非常用電源を利用して行いました。PDは被災の程度に応じ、かかりつけ病院(後方病院)で対応可能で、また物流供給も安定していたことをご報告いたします。